例年なら慌ただしい前半戦、静かな後半戦となるのだが、
今年はその逆。
同じ地区内のご近所さんが亡くなった。
そのお葬式の準備やら参列やらで。
・・・いやまて、今年に入って2人か、葬式。
1年で見ると3人。
こんなにも、最期のお別れをするのはなんとも言えない。
いや、同じ年代であっても、経験している人もいれば居ない人もいるだろう。
訃報はまず5月1日の病院帰り。
この日は親の通院で休みを取っていたが、かえってすぐにその知らせを聞く。
そして、すぐに近所の家に手を合わせに行く。
打ち合わせは1時間程度であっさり終了。
こちらが行くのは昨日の葬儀になるまでなかった。
何度もここに書いているが、山形では通夜→火葬→葬儀の順序。
すでに近所の方は骨になっている。
火葬は近親者のみなので、参列せず。
昨日は昼から葬儀。
曹洞宗のお寺さんで行われた。
いや、葬儀がお寺で行われるケースは友人の葬式以来かもしれない。
ほとんどがセレモニーホールとか、葬儀場での葬式だった。
大叔父も大叔母も。
ただ、うちの祖父母の時は葬儀はお寺で行った。
司会進行は近所の人がやるという形で。
この地域の習慣というものなのだろうか。
なので、あの訛った進行やら赤十字からの追悼のコメントやらなにやらで
危うく笑いそうになったのは・・・
しかし、葬儀場でやるときは笑わなくて、お寺でやる時に笑うのは・・・どうなっとるんだ俺。
お経もなんか笑いそうになった。
いや、大叔母と同じ宗教だが、なぜ?
なんか、どことなくアニメのキャラっぽい名前がお経に、
居酒屋チェーンだかどっかの企業名っぽいお経も。
・・・そんなことなかったのに。
ダメだこりゃ。
私の祖父母の時も危うく笑いかけ、母の体に寄っかかってどうにか誤魔化したが。
葬儀のあとは五七日忌繰越法要も執り行われたが・・・休憩なし。
葬儀場でやったときは一旦休憩はさんでいたが、休憩なしで一気に。
繰越法要の際には、参列者全員で曹洞宗のお経である修証義の第一章を唱えた。
・・・ん?そんなことやらなかったなぁ。大叔母の時は。
これまたお寺さんによって色々と違うのだろうか。
葬儀の最後には南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と参列者全員唱えたが、
これ以外にも参列者全員でお経を唱えるというのは、初めてだった。
うちのお寺(浄土宗)では南無阿弥陀仏を葬儀の最後に参列者全員で唱えてたが。
この修証義を全員で唱え、焼香をしたあとには、お坊さんからお経についての解説が入った。
「生を明らめ死を明らむるは 佛家一大事の因縁なり」
どうもこの冒頭の部分が頭にこびりついた。
葬儀の時間は1時間半。
久々の長時間の葬儀となった。最近はどうも90分以下で終わるような。
その日の夜には地区の人達で念仏を唱えるはずだったが、母の体調を考慮し、
中座させていただいた。
このブログをご覧の皆さんは、生と死について本気で考えることはないかもしれないだろう。
しかし、どうも高校時代に友人を亡くして以降は、
死ぬということについても考えねばならないと思った。
いや、考えなくてもいいかもしれないが。
ただ、あの大震災だ。
明日あなたは、起きることができなくなるかもしれない。
生きていないかもしれない。
アニメなんかでも殺傷シーンだの死ぬシーンだのとあるが、
生きている以上死ぬなんてことはいつかは訪れる。
その訪れ方は、静かに訪れるか、急にドーンとやってきてしまうのか・・・。
それもわからない。
人生のなかでも「死ぬということ」は、生きているうちに経験するものではない。
お坊さんのお話でも、「普段は死というのは考えられないが、近所の方が亡くなったことを通して
死ぬということや生きているということについて考えるきっかけにして欲しい」なんて言っていた。
ちょいと考えてみませんかね?
生きるということについて。
まあ、今年は夏にうまく行けたら何処かへぶらり旅にでも行くつもりです。
熱田神宮とか行けたらいいですよねぇ。
伊勢神宮とかも。
のんびりしたいですね。(やり方一つで無理でしょうけど。)