一昨日、うちからかなり近いところに住んでいる親戚から連絡。
大叔母(うちの祖母の姉)が亡くなったという知らせだった。
そういえばここ10年、身内やら親族関係とやらは
かなり疎遠のような状況になっていた。
私自身は学生で、母親に関しては仕事→難病治療という状況で、
なかなか親戚づきあいは出来なかった。
おそらく、祖父がなくなってからが・・・かもしれない。
大叔母は祖母が亡くなってからしばらくはうちにやってきて、手を合わせることがあった。
数カ月に1回ぐらいだっただろうか。
その後は認知症を発症していたが、10年前に施設に入居するようになった。
おそらくそれ以来顔を合わせたことがなかった。
そして、一昨日の未明に亡くなった。91歳。
誕生日を迎えたばかりだった。
大叔母の家は引っ越していたが、実は家に入ったことはなかった。
母はあるらしいが私はない。ただ、親に付き添うだけで。
そこにはずらりと10年ぶり(いやそれ以上かもしれない)に顔を見る人ばかり。
初めて見る方も当然。
中には地元に住んでいるおばも。
この方にも10年近くあってなかったわ。
あと、久しぶりに再従姉妹にも会えた。
多分、私が小学校に入った時以来かもしれない。
美しい女性になってしまったねぇと。
あのおばと変わらなかったので、てっきり3姉妹だったのかと(すみません・・・)
お3方とも介護士らしく、手慣れた感はあった。
おじもお元気そうで何より。再従兄弟の方は・・・眠そうな感じ。
さて、お葬式だが、亡くなった翌日に、納棺の儀と通夜が行われ、通夜ぶるまい。
その翌日に午前中から火葬、午後から葬儀、五七日法要となった。
そして、晩には地域の女性が集まってのお念仏。
うちの祖父、祖母の時の葬式でもあったが、これは葬儀があった当日の晩に行われている
(そんなかんじだったかしら。)
大叔母の家があるところは最近出来た地域だが、
どうも以前の近郊地域?からの念仏を継承しているらしい。
茨城のと大きく違うのは、おそらく「お念仏」の有無かもしれない。
(宗教も全然違うのでなんとも)
昨日は通夜と納棺。納棺もなんかあっさりし過ぎていた感じが。
今日は、山形市内の火葬場→同じ通り沿いにある葬儀場での葬式となった。
・・・そういえば、山形市斎場へ行ったのは、約20年ぶりかも知れない。
大叔母の旦那さんが亡くなった時。
あの頃は確か、寿町にヤマザワがあったような気がするが(幼少期の記憶なので定かではない)
そして、なんか暗い場所に通されて、大叔母の家に帰ってきたという。
それしか記憶に無かった。
それが今回の葬儀で幼少期の記憶もすこし蘇った。
暗い場所は火葬場の炉前ホールだか告別ホールだか呼ばれる場所。
非常に天井が高い。お経も響いていた。
炉前ホールと告別ホールは単に大理石?かなんかの仕切りがあるだけというもの。
仕切りを取っ払えば茨城の火葬場の炉前ホールぐらいはある。
(てか、茨城の火葬場は相当でかいってことか、100人近くも炉の前に行ったわけだし)
告別ホールで最期のお別れ。
そして、冷却前室に納められた。
ここも茨城のように冷却前室があるので炉本体を見なくて済む場所だった。
ってか、20年前からできてたんだ、そういうの。
とおもったら、どうも約30年近く前の施設らしい。
さすがは山形市、先見性があったのかもしれない。
いやまて、どことなく、中の雰囲気的に山形市役所っぽい気がしないでもないんだが。
外から見れば、住宅地に合わせてかなり立派な豪邸の雰囲気が。
他の方の話によれば、以前はかなり灰が降っていたらしい。近くの学校や畑に。
火葬場の場所も変わっていないとかなんとか。
火葬が終わった。
館内放送で収骨室へ。
約2時間経つと骨になった。
茨城の親戚の葬儀から2ヶ月でまたっていうのもなんとも言えない。
いや、葬儀屋さんとか火葬場の職員は・・・だろうなぁ。
骨は骨の中の細胞がくっきり。
脊椎も綺麗に残っていた。
そのあとは葬儀場へ。
以前家具屋があった場所らしい。
そこへ向かうさい、再従姉妹はなぜか盛り上がっていた。
「黒子のバスケ」の話題でw
ああ、ここもそうだったよ。
漫画アニメ好きなのは。
なんだか、茨城の時のファンキーフライデーを火葬場に向かう道中で聞いてるような感覚を思い出した。
盛り上がっとるなぁ。
この葬儀場は平屋建てで、いつだかの葬式のように上下階移動がなくて済んだ。
ただ、葬儀まで相当時間があったので、遺族休憩室で仮眠。
ここまでで相当疲れた。
葬儀・・・は弔辞はいつもの赤十字のCMのような弔辞なんだか
弔辞のようなCMなんだかよくわからん。
思い切って、開式前にCMでも流しましょうかねぇとおもえたり。
曹洞宗の葬儀はこれで3度目。
慣れると問題ない。いや、慣れてしまった。
お経とかねぇ。
あれは以前は笑いそうになったが、どうにか対処法がついてきたらしい。
・・・咳だな。
こうして、葬儀の流れは・・・山形では終わらない。
葬儀は滞り無く終了。
軽い精進落としをして、お念仏に。
その時間は仏間や和室に入れないのでリビングルームへ。
そこでは非常に濃ゆい宗教談義で花を咲かせていた。
某政党やら某宗教やら。あっちの親戚が来ていたら非常に気まずい空気が流れてたであろう状況だった。
念仏に参加していた再従姉妹は手が痛くなった。数珠回しというのが行われていたらしい。
このお念仏は2時間近くかけて行われた。
祖父の時や祖母の時もかなり長時間やっていたような記憶が。
こうして葬儀の全日程は終了。
おそらく妹であるうちの祖母のところへと向かっているだろう。大叔母は。
この日の最後に携帯のアドレス交換を。
再従姉妹ではなく、おばと。
まあ、なんかあったときの緊急連絡先が家の電話だけだったので。
これでやっと携帯番号が登録できた。
なんかあったときは安心でしょう。
今回の大叔母が亡くなったことや、茨城の親戚の爺さんの葬儀参列が
考え直すきっかけになるかもしれない。
あの頃はまだ小学校中学校時代だったため、
どういう関係でどういう付き合いかはさっぱりわからなかった。
幼い頃になんかおじいさんとおばあさんがわんさかいたなぁとか、
そういう程度の記憶しかなかった。
いや、親からはそういったところの説明も受けていない。
それが、高校に入って、多発性硬化症だ。
どうにか頭がまだいい状態のうちに、このうちの家系とやらを聞き出さないと
どうしようもないかもしれない。
まだ時間があると思っても、時間はない。
それに、おじから言われたこと・・・「早くいい嫁をもらって孫の顔を」
これは非常に難題だ。
一生、独り身で生涯を終えるかもしれない。
いや、人生はどう転んでいくのかはわからない。
はたして、私の人生というタイムラインはどのように編集されていくのだろうか。
それは、誰にもわからない。