この度は東日本大震災発生により、広範囲に渡る停電発生や通信規制などによって
1日近くネット上で何かしらのツイート・ブログ更新ができませんでした。
皆様には大変ご心配をおかけいたしました。
いつの間にか東北太平洋大地震とかいう名前から、
一部メディアで東日本大震災とか東日本大地震と呼ばれるようになっていたようですが。
これまでの状況も各種メディアなどで伝えられていますが、
私の場合はこうでした。
地震発生当時、私は会社の工場内にいました。地震の発生の前には
社内の電気がチカチカし、そのあと大きな揺れがやって来ました。
揺れが収まったところで私は工場の扉を開けて、外の駐車場へ避難。
そのとき、携帯を持っていなかったので他の方の携帯のワンセグで
宮城で震度7&大津波警報発令を知りました。
安全確認後、部署ごとに社内に荷物を取りに行き着替えようとしますが、
立て続けに来る余震でなかなか社内に入れず、揺れが収まったところで
非常電源や懐中電灯の明かりの中で荷物を持ち出し外へ再度避難。
ここで解散となりました。
近くの信号機や量販店、コンビニも明かりが点っていませんでした。
ラジオのニュースによると東北ほぼ全域で停電。
すでに、大きな道路には警察官が立って手信号で誘導していました。
そうでない道路は譲り合いの精神でどうにか徐行運転。
ラジオはFM山形でしたが、通常の番組のパーソナリティ陣が、
災害に対する心がけなどのアナウンスを繰り返すばかり。
そんなこんなで時間をかけ、自宅に帰宅。
難病の母は無事でした。
それどころか、自宅の外や中は損傷も何もなく。
多くの薄型液晶モニタ類も倒れることはありませんでした。
もちろん、食器も割れてません。
どうやら、自宅がある場所は地盤が非常に固い場所にあることと、
私が生まれる前(1988年頃)に火災にあったあと、1992年に建て直した際、
家の柱を一般的な家よりも太めの梁を使用していたということなどがあるらしい。
当然のことながら耐震基準もその頃になれば強化されてたはずですが。
そのあと、すぐに何があってもいいように玄関に大きな段ボールをしき
座布団と防災ラジオ、毛布を用意し、母と身を寄せ合いました。
偶然にも、ホッカイロが大量にあったため暖を取るには十分でした。
ラジオからは刻一刻と安否情報が流れる一方で、リスナーさんからのライフラインの情報も流れていました。
すでに電気が復旧したという地域があったという情報もあれば、お店が営業中であるという情報などが続々とラジオを通じて知ることができました。
やっぱり、こういう災害時には、ネットでもテレビでもなくラジオが重要になると。
昨晩は21時頃に就寝。
しかし、私自身3時半頃に目を覚まし、IS01の充電のために車へ。
車のガソリンは半分ですが、充電には十分でした。
車に行く前に2階に上がって外の様子を。
街頭の明かり何もなく、完全な暗闇が町を包んでいました。
空を見上げれば、キラキラと輝く星が。
あのような美しい夜空は久しぶりに見たような気がしました。
その時に、新潟長野の大地震の情報をワンセグで。
ラジオにあわせてもこの時間は全国に向けた災害情報が放送されていました。
テレビでは現状報告。
ラジオはリスナーからのライフライン情報と。
しかし、こんなにあちらこちらで地震が起きるなんて・・・。
きょうは本来ならば2週間に1度の病院の日だったのですが、自宅で待機。
しばらく経って、徒歩で一番近くのコンビニに寄ると、
本部指示で閉店との張り紙。
コンビニの公衆電話も無料で使用可能。
ツルハはあいていた模様。
信号機も動かないまま。
ずっとラジオはYBCに合わせたまま。
自分のガラケーは電池切れ。
ラジオからは、徐々に停電が解消されているという情報が刻一刻と入ってきていました。
あの時点でも上山市河崎が停電復旧していたらしいのですが、
16時ぐらいではまだまだ35万軒近くが停電中との報道。
このまま今夜も明かりが灯らないままかと思いきや、
18時半前に電気が復旧。おそらく信号も復旧したでしょう。
うちの場合は下水道や上水道ではないので、電気さえ復旧すれば
全て復旧したも同然だったりします。
携帯もこれで自宅で充電可能に。
とにかく、うちは大丈夫です。
しかし、東日本の太平洋側など多くの地域では、停電、断水、
それだけではなく津波に襲われてしまうなど、
言葉では言い表せないような被害が広がっています。
まだまだ寒い時期、皆様お気をつけて。
私も気をつけます。